俺の名前は龍導院名千。

別に珍しくもない、名古屋のそこら辺によくいるおっさんだ。

 

俺の人生にターニングポイントってやつがあるのだとしたら、間違いなく今日この日だろう。

 

 

ガラスの壁を隔てた向こう側。

釘にはじかれた一玉4円の鉄球が次から次へと奈落の底に吸い込まれて行くのを、苛立ち半分期待半分の気持ちで眺める。

俺は捻りっぱなしの掌が冷たい汗で湿っていくのを感じていた。

 

「いける、いけるぞ…」

暫くぶりに瞬き始めた眩暈がするようなフラッシュとチャンスミュージック。

目の前では、今まさに運命が決まろうとしている。

俺はビニール性の椅子から汗で少し湿った尻をいったん浮かせ、深く座り直した。

 

「アっ!っおぉ!……」

 目の前の台が最後の盛り上がりを見せ始めた。

 

きたぞ、きたぞ、くるぞくるぞ。

胸がこんなに高鳴るのはいつぶりのことだろう。

 

期待で心臓がバクバクする。

口角がいつの間にか上がっているのがわかる。

思わず全身に力がこもり、顔はかぶりつくように前のめりになり、両方の肩には力が入る。

浮き足立つとの言葉の通り、お気に入りの革靴は床を離れていた。

 

スローモーションになった。

もはや激アツの演出と言っていい。

 

「よし、金カットイン来いっ」

 

 

パチンコみたいなギャンブルは好きだ。

根拠のない運に任せて一喜一憂できるのは、自分がその辺にいる普通のおっちゃん達と大差ないしょーもない存在だと改めて思い知らせてくれる。

 

  運の良さっていうのは一体誰が決めているのだろう。

 

恵まれている人間もいればそうでない人間もいる。

ただひたすらに裕福であれば幸福かと言われると、それはそれで間違っている。

他人より優れた才能を持って生まれることが幸福かと問われれば、それもまた違うと答えるだろうな。

 

こんなことをいうと贅沢だと言われるかもしれないが、あらゆる事において他人よりも多くを持ちすぎているのは、それはそれで運が悪いと思う。

 

 

“人生は船旅のようなものだから、船を沈める重荷になるものは置いていけ ”

 

これは昔世話になった人に言われた言葉だ。

だからこれまで、俺は不要だと思ったものは全て捨てて生きてきた。

 

「っアァーーーーーーーーーーッっ」

俺の悲鳴は、パチンコ屋の騒々しさの中に消えた。

周りの椅子にはソーシャルディスタンスそっちのけで、とうもろこしの粒のようにみっちりとおじさんが座っているが、誰も哀れな俺に視線をやることはなかった。

 

どうせ年末にパチンコなんてやってるのは、事情は違えど俺と同じ哀れなおじさんばっかりだから、他人の不幸に気をやる余裕なんてないんだろう。

 

 

「…今度こそ、今度こそ来ると思っとったのにっ…。今週だけでもう5万だぞ…」

 必要なものだけ持って、不要なものは捨てる。

そうして生きていくことが、俺の信条の一つだ。

 

けれど最近では捨てすぎてしまったか、と悔しい思いをする事がちょくちょくあった。

特に四十路になってから、こうした後悔の機会は徐々に増えてきていた。

 

 

「あーあ。俺のリーチちゃん」

さっきまでの激アツが嘘のようだ。

騒がしさが収まった台が、知らん顔してまた鉄球を落とし始めた。

 

 

「もう撤退するか?でもなぁ 今日はこの台来る気がしたんだがなぁ、最終リーチまでなら何度も行っとるんだ…もうちょっと打てばなんとか…いや、最近仕事でも新規のヤマが来とらんで、これ以上は生活費削ることになるでなぁ…」

 

悩んでいる間も、1玉4円の球は排水溝と化した穴に消えていく。

ラスト500円。

 

せめてリーチだけはかかってくれよと念じたが、現実は実に無情だ。

最後の一粒が一番下の穴に吸い込まれ、しょんぼりと肩落とすしかなかった。

 

 

「はぁ…ついてねぇ。そういやしばらく肉も食ってねぇなぁ…世間はすっかり正月ムードだってのに…こいつが最後の野口くんかぁ」

財布から最後の紙幣を出して野口と見つめ合ってから、パチンコ台と見比べてみる。

正直な話、この千円札を使ったらこの年末年始、まともな食事を取ることはできなくなりそうだ。

 

猫背になった俺の背後から、台を物色する別の客の視線を感じる。

台の上を数字を見ると、この台はそろそろでかいあたりが来てもおかしくない。

席を立てば間違いなくこの椅子は取れられてしまうだろう。

このハイエナめ、と俺は心の中で舌打ちをした。

 

だが軍資金がたった千円では、当たりがくる可能性の方が低い。

 

「うーん」

野口を見つめて固まった俺の背後からは、やらないなら退けよ、といったふうの圧を感じる。

震える手が、千円札を台に吸い込ませようと伸びたところで、尻のポケットに入れていたスマホが震えた。

 

「あ?誰だこんな時にッ…俺は今から人生をかけた大勝負だってのに」

 

 

 

「あーはい、龍導院名千です。ただいま席を外しております。もう一度おかけ直しいただくか、ピーという発信音の後…」

『名千。私だ』

「円覚さん…」

 

電話は知り合いの坊さんからだった。

落ち着いた声が懐かしい。

この坊さんには、ガキの頃随分と世話になったものだ。

 

『くだらんことをしとるな。全くいい歳した大人のやることか…っ!ジャラジャラうるさい。聞き取りづらくてかなわんわ』

 

 よくしてもらった記憶もあるが、怒ると怖かったのも覚えている。

いや、今思い出したって言った方が正しいかも。

 

どうやら年貢の納め時のようだ。

俺も、そしてこの台も。

 

「…移動します」

背後のハイエナの視線を浴びながら、俺は千円札を財布にしまい、席を立った。

 

 

 

 

 

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